フリーターとはなにか


年末年始にかけて、久しぶりに界隈のBLOGを見て回ったのだが、そのときに2007年話題の論文として、「赤木論文」が多く挙げられていた。


この論文が出たときに話題になったことはちょっと覚えていたが、年末に初めて原文を読む機会を得た。文春を買わなくても読めるというのはありがたいことだと思いながら。言われていることは従前指摘されていたことが集まっているにすぎないが、圧倒的なリアリティ、切実感があり、また刺激的なタイトルの効果もあって、非常に人に訴える文章になっているように思う。


これに言及しているBLOGはいくつもあるが、中でもその趣旨を最もよく受け止めているのは、このエントリだろう。


平和の意味が曖昧化すると、戦争が出現するという話は、押井守が「パトレイバー」で既に描いていたことだが、それが一体なぜなのか、はいままでよく分からなかった。今回、赤木氏が明確に彼を憎む世界に対して、「憎悪」の感情をストレートにぶつけている事実を目の当たりにして、やっと「戦争」が出現することの意味が分かったのである。1%の可能性でもないよりはあった方がいい、極めて合理的な選択の元に、「戦争」が出現するのだ。


以前、小泉首相が総選挙をしたときに、なぜ若者が彼を支持するのか、という話があった。彼を支持して「構造改革」が進むと、彼らはより一層苦境から抜け出せなくなるのではないか、と。しかし、赤木氏はこの点について明確に指摘をしている。すなわち、現状を維持しても自分たちは苦境から抜け出せないのだから、上からさらに落ちてくる人を増やし、社会を流動化させるしかない、と。確かに、いまはまだ戦争が起こらない方が得をする人が圧倒的多数だから、実際には戦争は起こらない(いざとなれば赤木氏のような勢力は一掃できる)が、このような層が一定割合を超えたら、一気に社会は流動化してしまう危険を秘めている。これは不連続な過程である。


したがって、私も「ベーシック・インカム」については学ぶ必要があると思ったのだが、同時にいまでも分からないのは、「フリーター」というのは、どうして生じたのか、ということだ。これは、「ホームレス」がどのようにして生じたのか、という問いとも同じではないかと思っている。


昔、日本には「乞食」はいた。また、「木賃宿」もあり、「日雇い労働者」というものもあった。しかし、「ホームレス」や「フリーター」はなかった。実際、都会の公園や河川敷や地下道に段ボールやブルーシートで家を造って居住するという形態自体、明らかにバブル崩壊後までは、日本では誰も目にしたことはなかったはずである。欧米ではそれまでにも類似の「ホームレス」はいたと思うが、なぜ日本でそれが出現したのか。そしてそれは、昔の「乞食」と同じなのか、違うのか。「フリーター」は昔の「日雇い労働者」とは何が違うのか。


赤木氏は、自分たちは「失われた世代」だという。失われた10年に成人になった世代は、そのまま日本社会から忘れ去られたのだ、という。もしそうであれば、「フリーター」や「ホームレス」はバブル崩壊後の不況が作り出した、それまでの日本にはいなかった新たな貧困層なのだろうか。では、昔日本にいた貧困層はどこに行ってしまったのか。そして、なぜ新たな貧困層は昔の貧困層とは違う形態に見えているのだろうか。


この点について、どこか明らかにした論文はないか、と思っている。