2009年衆議院議員選挙


前回の総選挙の時にもエントリを書いている。それから既に4年も経過したというのが信じられない感じはする。


今回の解散は「追い込まれ解散」というのが正しい表現だろう。果たして麻生首相に現実に解散権を行使できるタイミングがあったかどうかは分からないが、結果的に任期満了にかなり近い時期に選挙が行われることになった。それでも「任期満了選挙」と「追い込まれ解散」が大きく違うのは、今回でいえば自民党両院議員総会を開催して総裁選挙を前倒しするということを麻生首相が免れたという点である。この最後の一点において、麻生首相は自ら解散権を行使するというイニシアチブを維持することができた。それが自民党の今の苦境を招いているという声も新聞ではだいぶ紹介されているが、果たしてどうだろうか。


現時点で新聞報道では民主党衆議院単独過半数どころか3分の2を占める可能性があるとのことである。この報道が有権者のバランス感覚を刺激して圧勝の度合いが低くなるかもしれないが、いずれにしろこれだけの民主党の躍進が見込まれる背景は何なのだろうか。逆に言えば、何がそれほど自民党の失点になったのだろうか。果たして麻生首相の様々な失策が原因なのだろうか。私はそうは思っていない。


1.景気の後退


自民党の「失点」については大きく分けて3つあると考えているが、その1つめは、景気が後退局面に入ってしまったということである。これはもちろん米国の金融政策の失敗が直接的な原因であって、間違っても麻生政権に責任があるとは思えないが、経済状況が国政選挙で大きな影響を持つのは万国共通の傾向である。これは結果責任が問われるので、政府が何か手を打てたかどうかに関係なく、景気が後退すれば政権党は批判されることとなる。


2.格差の拡大


2つめは、いわゆる「小泉改革」の結果、「格差が広がった」と思われ始めていたところに景気が後退してしまったため、「格差がさらに広がって格差が低い人たちの生活が脅かされてしまっている」という報道が広く行われ、信じられてしまったということである。僕個人としては小泉改革が格差を広げたのかとか、それによって本当に生きるか死ぬかの問題が起こっているのかとかいうことには疑問がある(少なくとも生きるか死ぬかの問題が起こっているのであれば、その原因は別のところにあるのではないか)が、そう信じられたことで、「小泉改革」を招来した「自民党」は政権をおりるべき、という確信を持つに至った人がいるのは事実だろう。


民主党の小沢代表代行は、この2つめの問題をとにかく拡大して報じ、その不信を最も持つ人たち(農村地域)に対して、徹底的な旧来型のどぶ板選挙戦術を行うことで主張を浸透させるという戦略を採っている。そして、このどぶ板戦術は前回の参院選でも非常に大きな効果を上げた。逆に自民党は従来お手のものだった「どぶ板戦術」の足腰が弱ってきていることに加え、「小泉改革の結果」を農村地域に魅力的にアピールできていないことが大きな足かせになっている。


3.責任力のなさ


3つめは、前回の郵政選挙のエントリでも書いたことであるが、政治手法の問題である。郵政選挙の際、私は以下のとおり書いた。

今回の郵政民営化法案の否決については、自民党内からは(法案の内容より)首相の政治手法が問題だ、という声も多かったような印象があります。例えば、総務会を全会一致(あるいは総務会長預かり)の形にせずに多数決で決定したこと、解散をちらつかせて賛成を迫る手法、などです。否決後もすごくて、森前首相らの反対を振り切ってあっという間に首相は解散を決断、郵政法案に反対した副大臣政務官は解任、解散に反対した農水相も罷免して解散を閣議決定。さらに、郵政法案に反対した議員は自民党公認をせず、対立候補を立てる、と。


ここまで「多数決」「首相権限」「総裁権限」をフル活用した人は、近年あまりいないのではないでしょうか。


(中略)


今回の選挙では、小泉首相のこのような政治手法に対する賛否、が一つの争点になるでしょう。ときどき、この点を逃して「郵政はたいした問題ではない」と言っている人がいるように思いますが、郵政はこのような政治手法の違いを鮮明に示したという点で、私としては重要な課題だと思います。「独裁的」とも言われる小泉流政治手法ですが、これまでの選挙や総裁選で「郵政は民営化する」と明言してきた、その総裁を選んできたという事実をどう考えるのか。ここまで公約を明言してきたにもかかわらず、党員がいざ問題の法案になるとそれに反対するという政治のやり方が望ましいのか。


私は実は今回もこの点が最も問題だと思っている。少なくとも自民党はこの4年間で、郵政解散で離党した人たちをどんどんと復党させ、現政権においては党要職にすら就けている。その究極的な結果が鳩山前総務相の引き起こしたかんぽの宿問題、東京中央郵便局問題、西川社長罷免問題であろう。明らかに4年前の「自民党の公約」とは違う方向に来てしまったことについて、自民党はどう考えているのだろうか。


さらに今回問題なのは、4年間で首相が4人目になってしまったことである。小泉首相は総裁の任期満了で交代したからいいとして、安倍首相は参院選の責任を取るわけではなく、体調不良により退陣。福田首相民主党の国会戦術に困り果て、公明党との不和が表面化した途端に逆ギレ辞任(「私はあなたとは違うんです。」)。これではいくらなんでも無責任すぎるのではないだろうか。その間にも政治資金の問題で現職閣僚が自殺するなどの不祥事が相次いだ。


これはまさに政権を支えるという役割を自民党が放棄しているのではないかとすら思える事態である。体調不良だったんだから安倍首相は可哀想だという人がいるが、少なくとも体調管理は最も欠くべからざる事柄であるし、そもそもその体調管理がうまくいかなかったのも若い首相を自民党首脳がしっかりと支えなかったことが原因だろう。


今の日本の都市部においては、言行の一致やプロセスの透明性、責任を明確にきちんと取ることが非常に重視されている。これが明確に現れた例として、自民・民主の大連立構想が出た時の世論の厳しい反応があった(不透明なプロセスで選挙民の投票行動(自民と民主の二大政党にそれぞれ投票した)を無効化しようとした)。民主党だって党首が随分交代しているし、いろいろと政治資金問題はあるが、やはり政権政党である自民党の方が圧倒的に目立つし、実際各所への影響力も格段に大きいわけで、この4年間の迷走ぶりは目に余ると言わざるをえないのではないか。


さらにいえば、もし今回総裁選挙が前倒しされて自民党総裁が交代していたとしたら、この一貫性・責任力の問題から言って、自民党はさらなる批判を浴びたことは間違いないだろう。



大局的に見れば小泉首相誕生の前から政権交代に向けた流れはできていたわけで、小泉首相は「言行一致」(少なくともしているように国民には見えた)によって自民党を延命させたが、それが終わった途端に元の流れに押し流されて自民党は崩壊してしまったように思われる。


麻生首相は上記から見ればかなり不運で(彼自身や閣僚の不祥事等が「言行一致」からはかけ離れて見えたという問題はあるが)、でもそれは昨年秋から分かっていたわけであって、それでも敢えて火中の栗を拾ったわけだから責任は取ったということになるのだろう。

公務員と組合


久しぶりのBlog更新である。総選挙が公示され、投開票まであとわずかとなってきた。今回の選挙は年金や医療の問題が最大の焦点となっている。その中で、社会保険庁の問題が注目されることは、ある意味当然であろう。


社会保険庁の問題というのは、社会保険庁の職員が故意あるいは過失により年金記録を改ざん又は消失させた問題を指すのだろう。自民党政権は、その処方箋として社会保険庁の解体と日本年金機構の設立という策を示した。共同の記事にあるように、この措置は懲罰的な意味合いが強い。そして、その効果は2つである。1つは、既に重い懲戒を受けた職員を年金業務に携われなくすること。もう1つは、自治労系の組合をつぶすことである。


finalvent氏は社会保険庁問題は「組織の問題」としているが、これはすなわち「組合の問題」という理解なのではないかと思われる。国鉄民営化以来、日本の行政改革の裏の課題は公務員の組合をいかにつぶし、弱体化するかという点にあった。これは、組合系の野党の弱体化を推し進めるという自民党の選挙戦略にそのまま合致しているし、一方で公共サービスの質が低いことが実際上組合のおかしな活動(本来禁止されているストライキを実施することをはじめ、社会保険庁で問題になっている利用者不在の窓口対応や過度のOA機器操作制限等)に由来していたから、サービスの改善を図る上でも必須だと考えられてきた。


今回の社会保険庁問題についても、公務員を非公務員化することの意義は、公務員の組合を一旦つぶすことにある、と考えられる。しかし同時に、日本年金機構の職員が非公務員である以上、通常の労働者としての労働組合を設立することが可能になるはずであるし、当然、これまで認められていなかったストライキなども合法に行えるようになるのではないか。そのような状況を招来することは、実際に組合の影響力を減じることにつながらないのではないか、という疑問は残る。


一方、社会保険庁が解体されずに、職員の地方公務員ではなく国家公務員としての身分が保持されるのであれば、国家公務員の集まった組合という形になるのだろうが、その組合が自治労に加盟するかどうか、などという問題は、政府が指示できるものではない。組合がどういう形で連合体を作って運動をすることが利益にかなうかは自ら判断するべきものであって、他者がそれを指示する能力はないし権限もないのである。したがって、民主党が何らかの「方向性」を示すということは理論的にあり得ないであろう。


むしろ、知事の指揮下に入るということが「二重構造」の原因なのであるから、それを解消しようとすれば、国税庁の職員のように完全に国家公務員にし、国の出先機関として社会保険庁の地方支部を扱わなければならないはずである。それは組合がどういう連合体に属しているかというような問題ではない。逆に、日本年金機構になれば非公務員になるのであるから、国家公務員である厚生労働省がそれをどうコントロールしていくのか、という二重構造問題は残るのである。


そもそも、国鉄や郵政のように、独立採算でやっていける事業体でなければ、結局のところ税金で歳入は保障されることになるのであり、民間会社同様の経営改善努力というものは生まれ得ない。モラル・ハザードの構造も変わらず、そこに費やされる公費のサイズも小さくなり得ない。そういう意味で、社会保険庁日本年金機構になろうが、歳入庁になろうが、広義の政府の一部門であり続けることは変わらないのであり、それを職員が非公務員になるから「政府が小さくなる」と「リバタリアン」が判断するというのは、どういうメリットがあるという理解に基づいているのかよく分からない。

地獄


エントリの本題とは全く関係なくて、貼り付けられてる絵本「地獄」の表紙があまりにも印象的だったので。また、コメント欄で「地獄」について触れてる人がいて、それもおもしろかった。


よく考えると、日本では神道では「地獄」ってない気がするので、きっと仏教によって「地獄」が導入されたと思うんだけど、「地獄」についてはあまり知らないので、ちょっと勉強しないといけないかもしれない、と思っている。中谷宇吉郎とか斎藤茂吉とかも、幼いときにお寺さんで見た「地獄絵図」とかには強い印象を受けたみたいなので、「地獄教育」って案外重要なんじゃないかと思ったりしている。

反戦


このエントリを見る前に、NHK BS2の「週刊ブックレビュー」で、『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(
岡田利規 著)をやっていた。このときに、書評ゲストとして森永卓郎が呼ばれていたのだが、全く本著について理解ができていなかったのが、印象的だった。


「ホテルでセックスするくらいなら、デモに参加すればいいじゃないか」という彼の発言は、彼が全く他人を理解できないことを示しているとしか思えない。それまで、森永卓郎は左翼だけど他人の不安心理をうまく突いて儲けてる人だな、くらいの認識しかなかったが、完全に私の嫌いな知識人になってしまった。お前のような全共闘世代が日本を悪くしたんだよ、と言ってやりたい気分だ。

フリーターとはなにか


年末年始にかけて、久しぶりに界隈のBLOGを見て回ったのだが、そのときに2007年話題の論文として、「赤木論文」が多く挙げられていた。


この論文が出たときに話題になったことはちょっと覚えていたが、年末に初めて原文を読む機会を得た。文春を買わなくても読めるというのはありがたいことだと思いながら。言われていることは従前指摘されていたことが集まっているにすぎないが、圧倒的なリアリティ、切実感があり、また刺激的なタイトルの効果もあって、非常に人に訴える文章になっているように思う。


これに言及しているBLOGはいくつもあるが、中でもその趣旨を最もよく受け止めているのは、このエントリだろう。


平和の意味が曖昧化すると、戦争が出現するという話は、押井守が「パトレイバー」で既に描いていたことだが、それが一体なぜなのか、はいままでよく分からなかった。今回、赤木氏が明確に彼を憎む世界に対して、「憎悪」の感情をストレートにぶつけている事実を目の当たりにして、やっと「戦争」が出現することの意味が分かったのである。1%の可能性でもないよりはあった方がいい、極めて合理的な選択の元に、「戦争」が出現するのだ。


以前、小泉首相が総選挙をしたときに、なぜ若者が彼を支持するのか、という話があった。彼を支持して「構造改革」が進むと、彼らはより一層苦境から抜け出せなくなるのではないか、と。しかし、赤木氏はこの点について明確に指摘をしている。すなわち、現状を維持しても自分たちは苦境から抜け出せないのだから、上からさらに落ちてくる人を増やし、社会を流動化させるしかない、と。確かに、いまはまだ戦争が起こらない方が得をする人が圧倒的多数だから、実際には戦争は起こらない(いざとなれば赤木氏のような勢力は一掃できる)が、このような層が一定割合を超えたら、一気に社会は流動化してしまう危険を秘めている。これは不連続な過程である。


したがって、私も「ベーシック・インカム」については学ぶ必要があると思ったのだが、同時にいまでも分からないのは、「フリーター」というのは、どうして生じたのか、ということだ。これは、「ホームレス」がどのようにして生じたのか、という問いとも同じではないかと思っている。


昔、日本には「乞食」はいた。また、「木賃宿」もあり、「日雇い労働者」というものもあった。しかし、「ホームレス」や「フリーター」はなかった。実際、都会の公園や河川敷や地下道に段ボールやブルーシートで家を造って居住するという形態自体、明らかにバブル崩壊後までは、日本では誰も目にしたことはなかったはずである。欧米ではそれまでにも類似の「ホームレス」はいたと思うが、なぜ日本でそれが出現したのか。そしてそれは、昔の「乞食」と同じなのか、違うのか。「フリーター」は昔の「日雇い労働者」とは何が違うのか。


赤木氏は、自分たちは「失われた世代」だという。失われた10年に成人になった世代は、そのまま日本社会から忘れ去られたのだ、という。もしそうであれば、「フリーター」や「ホームレス」はバブル崩壊後の不況が作り出した、それまでの日本にはいなかった新たな貧困層なのだろうか。では、昔日本にいた貧困層はどこに行ってしまったのか。そして、なぜ新たな貧困層は昔の貧困層とは違う形態に見えているのだろうか。


この点について、どこか明らかにした論文はないか、と思っている。

日本の未来展望


たまたま、今日付けの毎日新聞朝刊を読んでから、このエントリを読んだので、ちょっと思うことがあった。


防衛大学校長の五十旗頭真氏が、日本の国際的プレゼンスの低下について触れていたからだ。五十旗頭氏は、現在の日本の国際的プレゼンスの低下の原因は、一言で言えば経済力の低下であると指摘した上で、しかしだからといって、日本人はあまりにも悲観的すぎる、としている。


日本人が比較対象とする米国や中国はあくまで例外的な大国であり、欧州各国を見れば、それほど大きな国でなくても、国際的にはそれなりの存在感を発揮している分野があると指摘している。シンガポールもしかり、とのこと。


結論的には、日本が経済力の低下を憂えて内政にばかり振り回されているとし、防衛予算+ODA予算という国際経費を増やさねばならない、としているのだが、ここでむしろ目を引いたのは、「下降局面に入っても、だからといってそのまま没落するか、引き続きそれなりに頑張るかは、まだ選ぶ余地がある」という主張だった。


で、冒頭のエントリに戻るわけだが、この冒頭のエントリはその直前のエントリとつなげて読んだ方がよいわけだが、日本の「信用」が落ちているというのは、要は日本の未来の発展可能性が低くなっているからだ、ということである。


finalvent氏は、日本には未来展望がない、と端的に指摘しているにもかかわらず、日本オワタなのか、というとそこはまだ白黒つかない、ともしている。未来展望がない≒オワタのような気がするが、そうでもないのは、これから日本で出生率が上昇して人口が増える可能性があるということを考えているのか。あるいはその前のエントリで指摘しているとおり、日本の生産性は低いことから(私個人としては、日本のホワイトカラーの生産性は低いと思うが)、これを上昇させる可能性があると言うことなのか。あるいは、経済力とは関係なく「オワタ」にはならない可能性がある(五十旗頭氏のように)、ということなのか。


私としては、これから「オワタ」と思って生きていく気はないので、何らか前向きに頑張るしかないとは思っているのだが、五十旗頭氏の前向き感とfinalvent氏の後ろ向き感(でも若者にはエールを!という姿勢)の背後にあるモノが、ちょっと気になった。

感情労働の時代


日本も「第三次産業の時代」と言われて久しいが、こういう形で問題が現れてくるとは、誰が予想しただろうか。はてなブックマークにあるように、いくつかの問題が混ぜて語られている印象はあるが、しかし逆にこういうくくり方をしたことで、鮮やかに見えてくるものがある。


例えば、医療・介護・教育については、家庭の力が弱まり、その「社会化」が進み、当然に第三者から提供されるサービスを利用するようになったことが問題の原因なのであろう。その中で、より広く消費者の権利意識の強化が進んだ。同時に、医師や看護師、教師たちの権威の低下も進んだ。これらの結果何が起こったか。これらのサービス提供者は、その労働時間やストレスに見合わないような給料で、日々のクレームに対処しなければならなくなったのである。実際にクレームにぶつかることはそれほど多くなくても、そういう事態に発展しないよう、常にリスクを考えて行動することが求められるようになる。医師が最近、訴訟リスクを恐れて産婦人科に就かないようになっているというのは、有名な話だ。そして、本務である医療の質や教育の質は、その向上に費やす時間が少なくなるに伴い、低下傾向にあるのではないか。


また、製造業であってもその製品を消費者に届ける限りは、消費者からのクレームには対処せざるを得ない。社内分業が確立すればするほど、クレーム担当者のストレスは過重になっていくだろう。


AERAでは今回、あくまでも現場の労働者に目を向け、現実的なストレス対処法を指南している。しかし同時に、もうちょっと広く社会的な視野で、この「感情労働の時代」をどうするのか考えなければ、医療・介護・教育などの分野の現場が削り取られていくことになってしまうだろう。