「メディア」としてのインターネット ―オープンネスとパブリックネス―


BLOGってなんだろう、という議論というのは、今でもあるのでしょうが、その米国における位置付けと、日本における位置付けというのは違うんだろう、と米国のBLOGを読んだこともない私は思っています。


典型的に言えば、米国におけるBLOGというのは「ジャーナリズム」の一端をも担うものと考えられていて、すなわち「パブリック=公共的」なものだと考えられているのではないかと思います。


一方、日本におけるブログというのは、むしろ「はてダ」(はてなダイアリーをこう略すことを最近知りました)にトラックバック機能が付いたことが重要な契機になったように、むしろ日記的、すなわち「プライベート=私的」なものが多いのではないか、と勝手に思っています。


団藤さんのように、BLOGとはすなわちジャーナリズムであり、ブロガーはすべからくジャーナリストであるべきである、という意見を展開される方もいらっしゃいますが、それはおそらく少数派なのではないでしょうか。


で、ここまでは「パブリック=オープン」⇔「プライベート=クローズド」という発想で私も理解していたのですが、実は、世の中にはプライベートだけどオープンにしたいという欲求が渦巻いているのではないか、という指摘を見付けました。


これを読んで、ああ、なるほど、そういう欲求は確かにあるよね、と思いまして。これのずっと前に、BLOGの役割を「ジャーナリズム」ではないものとして取り上げていて、秀逸だと思ったものに、finalvent氏の指摘があります。

 少し具体的な側面でいうと、例えば北朝鮮拉致問題や中国反日問題。基本的にこうした問題について、あまり声高に意見を述べる必要はない。また、特定の意見や特定の論者を信奉する必要はない。大抵の場合、大衆の健全な常識はこうした場合に無言なものだ。が、その無言がかつては、ある実際的な社会連帯の実感を伴っていた。現代ではそれがない。現代では、実体的な社会でのそういうコミュニケーションはないし、復権もできない。

 そうしたとき、ブログなりは、ある種、フツーなふーん、という常識的な連帯の水準を形成しえるように思う。

 むしろ、その連帯の水準は、専門的な知識による審判をそれほど必要としない。

 そうした連帯が必要なのは、すでに旧来のメディアが別の組織性(含権力)という側面を明かにしてきているためだ。

 必要なのは、ふーん、そーだよねー、である。

 例えば、これとか⇒らくだのひとりごと: 席を譲らなかった若者


 気の効いた意見というより、ふーん、そーだよねー、である。

 これを読んだ人がその若者のような行動をするかといえば、しないのではないか。ただ、こうしたエントリーを読みながら、ふーん、そーだよねー、というふうに意識を再確認するという連帯があると思う。そしてこの弱い連帯性は、デュルケム的な意味での連帯の代用にもなるだろう。


個人的なつぶやき、独り言、それが弱い連帯を作ることが大切だ、ということですね。


「陰口でつながる自由」で取り上げられていたのは、これまで、オープン=パブリックだったのに対して、今は2chはてなブックマークのコメント欄に見られるように、プライベートなのにオープンにつながりたいという事柄があるということです。これは、主にネガティブ(陰口)だけを取り上げていますが、逆にポジティブであっても、同じようにつぶやきをつなげていきたい、という欲求はあり、実際そういうやたらとポジティブなWEBサイトというのもあります。


インターネットにあるものは、オープンである以上全てパブリックだと思っていたりすると、R30氏のようにやたらとうろたえる人が出てきます。


ここでR30氏がやたらと動揺しているid:makato氏の日記は、私もいつも読んでいますけれど、まさに個人的なつぶやきであって、パブリックな目的で書いているものではないでしょう。「批評」といえば、相手あるいは公衆に対して訴えるパブリックな意味合いがあるわけですが、id:makato氏のそれは単に自分が思っていることを述べているに過ぎないわけです。それに対してR30氏が必死に対応を試みるというのは、レストランを出た後にお客が「どうも料理がいまいちだった」と感想を述べ合っているのを聞いて、店主がうろたえているといった風景なわけで。そんなにおいしい料理を作っているとでも思っていたんですか、とか皮肉の一つも言いたくなる。


で、id:lazarus_long氏が述べておられる通りですよね。


ただ、このプライベートなつぶやきに過ぎないひとことが、弱い連帯を形づくっていくと、実はパブリックな機能を果たすようになる、というのがfinalvent氏のおっしゃっていることで。


まさに、「報道機関」ではなくて、「媒介物」としての「メディア」に「インターネット」がなってきていて、それがこれから重要な機能になるのではないかと考えると、「ジャーナリズム」の枠を超えて、どう付き合っていくのがよいのか、考えがまとまらない昨今です。