議論


finalvent氏のBLOGはよく読んでいる。ついでに日記も。いま一番よく読んでいるBLOGだと思う。


「反感を持たれる書き方」という話が載っていて、そういえば、私も全然違う文脈ですが、似たようなことをちょっと今日思いました。いかにこっちが寛容でも、議論すると怒ってしまう人っていうのがいるんですよね。いかに怒らせないように議論をするか、という意味で、こちらのスキルがまだ足りないんだろうなー、と感じます。


なかなか難しいのでしょうけどね…。

連休の終わり

今日でゴールデンウィークも終わりですね。

昨日の夜は久しぶりに夏休み終了直前のような気分でしたが、今日になってみると、案外気分がよいものです。外は雨ですが、これも普通の日曜日に戻ってきた感じがします。おそらく、単に先週初めから引いていた風邪がよくなってきたから、気分がよくなっているだけだと思いますが。

ゴールデンウィーク後半は、久しぶりにちょっとしたホームページの改修をやっていて、とりあえず一息付けるところまで行きました。これからは中身の充実が課題ですが。。。

はてダも1年ぶりにさわってみると、入力画面が変わっていて、ずいぶん使いやすくなってますね。よりGUIになっているというか。

『潜入ルポ アマゾン・ドット・コムの光と影 躍進するIT企業・階層化する労働現場』

アマゾン・ドット・コムの光と影

アマゾン・ドット・コムの光と影


アマゾンジャパンの物流倉庫に潜入してアルバイトを体験した著者によるルポルタージュ。この本のタイトルにある「階層化する労働市場」の底辺層の生活がかいま見えるのではないか、と紹介されて読みました。


読んだ感想としては、階層化する労働現場が見えるようなルポルタージュにはなっていないと思います。「影」と書いてありますが、著者が強調したいと思っているほど悲惨な現状があるわけでもなく、ただ淡々と軽作業を毎日繰り返すアルバイトがたくさんいるという光景が広がっているだけです。


昔に比べて階層化が進行しているという証拠もなく、それほど悲惨でもない労働現場の描写は、むしろアマゾンや物流を請け負っている日通の経営の素晴らしさを演出しているとすら言えます。彼らの労務管理もそれほど異常ではなく、うまく人件費を抑える仕組みを作っているな、と感じさせられるものです。


もし筆者が「影」をえぐり出したいと思っていたのであれば、文中に出てくる他のアルバイトの生活実態を丹念に取材する必要があったでしょう。その辺は、非常に中途半端に終わってしまっています。


私が本書を読んで面白いと思ったのは、むしろ本書のもう一つの側面、すなわち、なぜ日本においてアマゾンは急成長して成功を収めているのか、という点の分析です。これは、既存の書籍流通や書店の在り方が、いかに顧客の利便性を無視したシステムであったかを明らかにしています。出版業界というのは、政府の規制に守られた規制産業ですが、その政府による「再販売価格維持制度」よりは、書店が売れ残った書籍を出版社に返品可能という「委託販売制度」の方が、サービスの向上を阻害しているという著者の分析は説得力があります。


そして、アマゾンのすごさは、単に本をインターネットでいつでもどこでも買えるようにしたということではなく、個々の顧客の閲覧履歴・検索履歴・購入履歴を全て記録しておき、それを元にして個々の顧客に対してカスタマイズされたサービスを提供すること、一方で、その膨大なデータを統計的に処理して販売予測の精度を圧倒的に高めたことにある、というわけです。前者は、ダイレクトメールやWEBページ画面に反映され、顧客に一層本を買わせる役割を果たします。後者は、返品率を圧倒的に低くすることで、「委託販売制度」に頼らないビジネス(出版社との直取引)を可能にします。これらが、アマゾンを普通の書店では到底適わないような利益を上げる会社にしているというのです。


これを見て、私はなるほどな、とアマゾンの成功モデルを理解することができました。そして、こういうモデルであれば、利用者が増えれば増えるほど、一層アマゾンに有利な展開が進んでいくことが予想できます。


このような工夫は、よく考えれば書籍以外の商品やサービスの販売でも可能なはずです。そう考えると、著者のいう「影」は確かに今後も拡大を続けていくでしょう。ただ、それはこれまでアルバイトや派遣社員があまりいなかった職場にそういう職種の人たちが登場するというだけのことであって、質的にこれまでと全く異なる「底辺層」が形成される要因というわけではないのではないでしょうか。


むしろ、ITによる流通の効率化を解体し、分かりやすく紹介した本として、本書は価値があるものと思います。

教育

前回の記事になんとコメントをいただいていて、それへの回答など、いろいろ考えてはいるのですが、まだ熟した形になっていない。


で、それを保留して、今日は簡単なメモ。

Hの場合は子供たちを育てるという視点からではなく、自分が子供たちから受容されるという視点から授業を行っていたようなので、教え手としてどうなのかという感じもするけれど、人間社会がそうであるようにその縮図である子供の社会もいろいろであって、子供の中には卑劣な者もいれば下劣な者もいる。


それを指弾し、糾弾するのであれば、教師である必要はなく、教師に求められている役割は更に一段高い視点からそれを指導してゆくということである。


むろん、困難に過ぎる仕事である。


しかし、だからこそ教師と言う職は敬されているのであり、俺はその困難な仕事を負うだけの覚悟がなかったから教師にはならなかった。



私は教職資格などは持っていませんが、やはりどのような場にも教え育てるという局面は生じるもので、深く考えさせられます。

「メディア」としてのインターネット ―オープンネスとパブリックネス―


BLOGってなんだろう、という議論というのは、今でもあるのでしょうが、その米国における位置付けと、日本における位置付けというのは違うんだろう、と米国のBLOGを読んだこともない私は思っています。


典型的に言えば、米国におけるBLOGというのは「ジャーナリズム」の一端をも担うものと考えられていて、すなわち「パブリック=公共的」なものだと考えられているのではないかと思います。


一方、日本におけるブログというのは、むしろ「はてダ」(はてなダイアリーをこう略すことを最近知りました)にトラックバック機能が付いたことが重要な契機になったように、むしろ日記的、すなわち「プライベート=私的」なものが多いのではないか、と勝手に思っています。


団藤さんのように、BLOGとはすなわちジャーナリズムであり、ブロガーはすべからくジャーナリストであるべきである、という意見を展開される方もいらっしゃいますが、それはおそらく少数派なのではないでしょうか。


で、ここまでは「パブリック=オープン」⇔「プライベート=クローズド」という発想で私も理解していたのですが、実は、世の中にはプライベートだけどオープンにしたいという欲求が渦巻いているのではないか、という指摘を見付けました。


これを読んで、ああ、なるほど、そういう欲求は確かにあるよね、と思いまして。これのずっと前に、BLOGの役割を「ジャーナリズム」ではないものとして取り上げていて、秀逸だと思ったものに、finalvent氏の指摘があります。

 少し具体的な側面でいうと、例えば北朝鮮拉致問題や中国反日問題。基本的にこうした問題について、あまり声高に意見を述べる必要はない。また、特定の意見や特定の論者を信奉する必要はない。大抵の場合、大衆の健全な常識はこうした場合に無言なものだ。が、その無言がかつては、ある実際的な社会連帯の実感を伴っていた。現代ではそれがない。現代では、実体的な社会でのそういうコミュニケーションはないし、復権もできない。

 そうしたとき、ブログなりは、ある種、フツーなふーん、という常識的な連帯の水準を形成しえるように思う。

 むしろ、その連帯の水準は、専門的な知識による審判をそれほど必要としない。

 そうした連帯が必要なのは、すでに旧来のメディアが別の組織性(含権力)という側面を明かにしてきているためだ。

 必要なのは、ふーん、そーだよねー、である。

 例えば、これとか⇒らくだのひとりごと: 席を譲らなかった若者


 気の効いた意見というより、ふーん、そーだよねー、である。

 これを読んだ人がその若者のような行動をするかといえば、しないのではないか。ただ、こうしたエントリーを読みながら、ふーん、そーだよねー、というふうに意識を再確認するという連帯があると思う。そしてこの弱い連帯性は、デュルケム的な意味での連帯の代用にもなるだろう。


個人的なつぶやき、独り言、それが弱い連帯を作ることが大切だ、ということですね。


「陰口でつながる自由」で取り上げられていたのは、これまで、オープン=パブリックだったのに対して、今は2chはてなブックマークのコメント欄に見られるように、プライベートなのにオープンにつながりたいという事柄があるということです。これは、主にネガティブ(陰口)だけを取り上げていますが、逆にポジティブであっても、同じようにつぶやきをつなげていきたい、という欲求はあり、実際そういうやたらとポジティブなWEBサイトというのもあります。


インターネットにあるものは、オープンである以上全てパブリックだと思っていたりすると、R30氏のようにやたらとうろたえる人が出てきます。


ここでR30氏がやたらと動揺しているid:makato氏の日記は、私もいつも読んでいますけれど、まさに個人的なつぶやきであって、パブリックな目的で書いているものではないでしょう。「批評」といえば、相手あるいは公衆に対して訴えるパブリックな意味合いがあるわけですが、id:makato氏のそれは単に自分が思っていることを述べているに過ぎないわけです。それに対してR30氏が必死に対応を試みるというのは、レストランを出た後にお客が「どうも料理がいまいちだった」と感想を述べ合っているのを聞いて、店主がうろたえているといった風景なわけで。そんなにおいしい料理を作っているとでも思っていたんですか、とか皮肉の一つも言いたくなる。


で、id:lazarus_long氏が述べておられる通りですよね。


ただ、このプライベートなつぶやきに過ぎないひとことが、弱い連帯を形づくっていくと、実はパブリックな機能を果たすようになる、というのがfinalvent氏のおっしゃっていることで。


まさに、「報道機関」ではなくて、「媒介物」としての「メディア」に「インターネット」がなってきていて、それがこれから重要な機能になるのではないかと考えると、「ジャーナリズム」の枠を超えて、どう付き合っていくのがよいのか、考えがまとまらない昨今です。

geekの供給と需要


総選挙が終わって、もう内閣改造まで終わってしまったので、それらの話題は華麗にスルーして、今日はちょっとメモ。


切込隊長のBLOGはいつも読んでて、いろいろと参考になるんだけど、geekの供給と需要がマッチしてないよね、という話題は、まさにそうだと思いました。


さらに展開すれば、これはIT技術者に限らないんじゃないか、と。すなわち、一定程度の専門的スキルが必要とされる人材というのが、いわゆる「本流」の分野にはあふれるほどいるのに、本流から外れていて、しかしニーズがある分野になかなか存在しない、という事例はいろいろあると思います。例えば、法律家(あるいは法的思考ができる人)というのも専門的スキルの一つでしょう。


これがいわゆる「ニッチ市場」であり、ニッチ市場の方が、それほどの能力がなくても高収益が上げられる構造にあったりするんですよね。


こういうのの供給と需要のマッチングができないと、社会的厚生が下がってしまうのでもったいないなぁ、というのが私の感覚ですが、しかし切込隊長が指摘しているとおり、こういうgeekgeek同士の評判や最先端・本流の議論に常に取り組むことを好むので、それを無視して考えることはできません。


いずれにしろ、こうした高度な知的能力をいかに社会的にうまく利用できるのか、という効率性の問題は、非常に重要だと思います。


(追記)

コメント欄を見てたら、「上司がgeekをきちんと評価できない・待遇できないからいつかない」「geekをとりまとめるプロマネがきちんとしてないとダメ」という批判がいくつか。


なるほど、それはそうかも。難しいのは、能力がないけど評価は適正にできる人っていうのは、かなり少ないということでしょうか。


単に成果主義じゃないとダメとかそういう意味ではなくて、プロジェクトマネージメントの欠如の問題がここでもまた顕在化するんですね。