コムスン事件雑感


介護保険制度」ができたときに、これによって老人ホームへの入所が、従来の「行政処分」としての「措置」ではなく、保険制度を利用した「サービス」の提供という形に変わったと説明された。その後しばらく経ってから、実際に老人ホームに行ってみても、やはり昔の意識とは違う意識になってきていると思った。それこそ介護保険制度ができた頃に話題になってたのは、「拘束」の問題だったと思う。いま、どのくらい「拘束」が行われているか分からないが、一般的には人権侵害と取られるのではないか。そういう意味で、一般的には、富める者も貧する者も、老人ホームに入っている限りは一定以上の待遇がなされるようになってきているのではないか、という印象がある。


一方で、介護保険制度により創設された福祉制度というのは、すなわち行政丸抱えの世界から“市場”を登場させることによってコストの低減とサービス品質の向上を図ることが企図されていた。この点については、当初から私には疑問点があった。介護保険制度の下では、サービス品質がどのようなものであれ、支払われる対価は一緒なのだ。したがって、コストの低減は図られるとしても(その分、事業者の利潤となるからだ)、サービス品質の向上は図られないのではないかと思ったのだ。理論的には、適切な競争状態であれば、サービス品質が向上しないと、客がいなくなるために、サービス品質は向上することになる。が、実際には日本の介護市場は完全なる売り手市場であり、客は何年も待たされて老人ホームにやっと入れる状況である。このような売り手側に競争のない状況であれば、サービス品質の向上はとても望めないであろう。


そして今回の事件を見るに、コストの低減にしても、要は基準を下回る質にしない限りは利潤が出ないような状況になっていたのではないか。こういうとき、リバタリアンは、サービスの質の基準の撤廃と価格規制の撤廃を主唱するのだが、実際にはそれは不可能である。もし介護を必要とする全ての者に、一定レベル以上のサービスを提供するというのが介護保険制度の趣旨であれば、リバタリアンの主唱する案を実現しようとすれば、介護保険料を著しく引き上げなければならないであろうからだ。しばらく前から、介護保険料を20才から徴収すべきとの議論はあるが、それ以上に著しい介護保険料の引き上げは、国民に受け入れられるようには思われない。一方、「介護を必要とする全ての者に、一定レベル以上のサービスを提供する」という建前を捨て去れば、介護保険料の引き上げは不要であろうが、それではむしろ、「措置」時代の状況よりも、貧者にとっては状況が悪化することを意味しよう。


このように、市場が成立し得ない状況にあるとき、社会主義的に国家が乗り出す必要性が高まるのは、やむを得ないのではないか。もちろん、それが即、国家による介護サービスの独占などに直結するわけではないが、いずれにしろ全体としては持続可能なシステムを構築することが国家の責務となると考える人が多いのではなかろうか。


(追記)


最近も、拘束あるいは薬漬けといった現実があるのだということを思い知らされるエントリ。拘束が常識の時代よりは、よくなっているのでしょうが…(以前は、「拘束されて当然」という意識があったと聞きます)。

社会科学の専門性


コメント欄で触れられているように、社会科学の専門性が認知されてきてるのなら、いいことなんじゃないかと思う。Bewaad氏にどの程度彼が言及している問題に専門性があるのかは別として。現時点で最も専門性が認められているのは自然科学。社会科学はいまいち確立できていない(それが一因で、Bewaad氏が述べているように憲法学者憲法に関する審議会に入らなかったり、教育学者が教育に関する審議会に入らなかったりする。もちろん、問題が政治化しすぎているという事情も大きいが)。でも、社会科学がきちんと専門性を認められ、同時に学問として体系的に積み上がっていく(“進歩”があるようにする)ことが大切なことだと思います。

WikipediaのSharingとPeering


を読んで少し思ったことを。


まず、私のように本を読まない人にとって、「[書評]Wikinomics:ウィキノミクス(Don Tapscott:ドン・タプスコット): 極東ブログ」のような書評記事は大変ありがたい。梅田氏の最近の本も、finalvent氏の評を読んで知ったような気がする。ホントはこれを見て、その本を買って読むべきなのだが、実はそれもほとんどせず、書評を読んで済ませてしまっている。という感じで、最初に謝意を表したいと思います。

1.で、まずはSharing

finalvent氏は「収益性」の観点から論点を提示しておられます。そこではまず、

たとえば、オープンソースと収益については議論しやすい。

とありますが、まさにfinalvent氏自身が言うように

もし企業人、特に企業経営者なら、オープンソースに関わる社内エンジニアを一人呼び出し簡単な関連の質問をすれば、そのエンジニアがウィキノミックスという大著を読まずに、これらの指針の詳細を明確に伝えることができることを理解するだろう。

[書評]Wikinomics:ウィキノミクス(Don Tapscott:ドン・タプスコット): 極東ブログ

ということであれば、ベースはオープンソースをどう収益化していくか、ということなのではないでしょうか。その具体例は、使い古された事例でいえばLinuxでしょうし、英次郎→アルクなのでしょう。


もちろん、finalvent氏もそれは通り過ぎ、次の論点として

だがウィキノミックスによって、世界全体、あるいは産業界が、収益の側面でどうシフトするかはまったく見えてこないと言っていいように思える。

とし、その後長い余談として「Res publica」の話が展開されるのだが、その冒頭

コモンズについて法学的な発想からの議論は多いようだが、私は歴史的に見た場合の、「ローマ帝国」の概念が気になっている。

というところに、法学をやった人はまず躓くのではないでしょうか。少なくとも日本で法学を勉強する場合、その伝統はローマ法学から発するものであるというのは前提となっているわけですから、「法学的な発想」と「歴史的に見た場合のローマ帝国の概念」が別個であるとは考えられないでしょう。おそらく、ここで言っておられる「法学的な発想」というのは、狭い意味での現行の著作権法に係る解釈に限定しているのでしょうが、「ローマ帝国の概念」は当然法学に内包されるという感覚は世間では通じないのでしょう。


さて、この躓きを乗り越えてその先を読むと、突如「Res publica」→「Commonwealth」→「大英帝国」となり、

これらが、帝国=国家として、人々(西洋人)に意識されている、あるいは西洋人にとっては国家の原義が共有性の財産として理解されているということであり、国家を生み出す情熱もまた、この共有志向の流れから考察が可能だ。共有性とは国家の領域なのである。

と言われると、それはあまりに飛躍があるのではないかと思わざるを得ません。finalvent氏自身も指摘しているとおり、「Res publica」は「Republic」の原語であり、それは日本語訳すれば「共和国(制)」であるわけです。


私自身はローマ政体について勉強したことはありませんが、聞いた話では、ローマ時代というのは財産について原則が公共物であり、例外が私有であったらしいです。いまはまさにそれが逆転しています(原則私有、例外が公共物)。このように財産権のあり方は大変興味深い論点ではあるのですが、少なくともローマと現代の国家との間には「王政」があり、それが現代の種々の法制度に対しても影響を与えているわけですから、西洋人にとってしても「国家=帝国=共有制の財産」というのは極めて短絡的・恣意的な捉え方とみなされうるのではないでしょうか。


また、現代において、私有か公有かという次元と、単独所有か共有かという次元は、制度的には分けられています。もちろん、私有財産制の現行法制が原則として単独所有を支持しており、例外的に共有という形態を認めているという構造はあり、それはfinalvent氏指摘の点かとは思います。しかし、現代において共有=国家とはならないのであって、そこにむしろ昨今話題となっている「新しい公共性(=国家(官)に属さない公共の領域)」が存在するわけでしょう。非営利の民間法人がクローズアップされるのはそういう文脈であり、こういう時代にありながら、

共有性とは国家の領域なのである。

というのは誤解を生む表現ではないかと思います。

2.ついで、Peeringについて

こちらはそれほど論点はないのだが、finalvent氏はリーダー論に触れておられます。当然、これもオープンソースから引っ張ってくれば、既に「バザール方式」における「優しい独裁者」というモデルが提示されています。これは一般の非営利民間活動においても同様です(逆に言えば、非営利民間活動におけるリーダーシップ論はそれほど成熟していません)。


一方、finalent氏が指摘しているピアグループの特性という観点からすれば、いわゆるアカデミックの世界におけるPeering(論文の査読等をボランティアで行い、Peerな関係での言論・評価によってReviewが行われ、質が保たれる世界)が、「バザール方式」には影響していることは知られています。これは一種のコミュニティが前提となっているわけで、例えば化学学会であれば「化学」に関する基礎知識等が「教養」となっているわけですが、がGoogleであれば、それが「数学とITとプログラミング、そして『スター・ウォーズ』」であるわけでしょう。


しかしながら、WikipediaコミュニティとGoogleコミュニティは同じなのでしょうか?また時代を通じて同じであり続けるでしょうか?おそらく私はそれはないのではないか。すなわち、「教養(あるいは文化)」は2ちゃんねるの板ごとに違うのと同様、WikipediaGoogleでも違うでしょうし、時代によっても変わってくるのではないかと思います。それを超えた普遍的「教養(あるいは文化)」がありうるのか、という問いかけをfinalvent氏がされているのであれば、それは分かりませんが。

外資系に転職すると


ずっと服装の話かと思ったら、最後に一番大事なことが書いてある。切込隊長にしては珍しい書き方ですね。


「地位に見合った裁量と権限と責任を背負ってしまっている」とあることは、少なくともそれなりの地位に転職できているということだから、この方はそれなりに能力があり、それが発揮できる状況にいるのでしょう。


そういう方が

でも、確実に思うのは、外資系に転職して、生活のリズムが狂ったのか、数年しないうちにあからさまに身体を壊したり鬱になったりする人が増えたということ。そりゃギャラや権限は増えて仕事のやりがいはあるのかもしれないが、結果がすべてと言われて、器を超えて働き詰めて、倒れてしまっては意味がない。他人や流行を見て身だしなみを整えるのと同じぐらい、自分のやりたいことに気を使わないのは、結局は長続きしないってことだろうと。まあ「お前が言うな」とか言われそうだけど、健康は大事ですよ。しっかり療養して、元気に復職してください。

という状況にあるというのは、大きな問題と考えなければならないのではないでしょうか。「給料増えたんだからいいでしょ。全部自己責任の範囲内でしょう。」というべきなのでしょうか。

若者といえば


私は、「最近の若者は…」という言い方は根本的に嫌いなのだが、おそらくその理由の一つは、それによって「自分は違うけど」という局外的なイメージが出ることだと思う。そういうあなたはそんなに立派なわけ?といいたくなる人がいかに多いか。自分だってそう問われたら胸を張ってはいられないんじゃないかなーと思うわけです。


あと、世代論にしてしまうことで、個々の問題を考えずに済ませてしまうことになるところも嫌い。それって結局無責任なんじゃないの、という気がするのです。その後に、「ゆとり教育世代だから…」とか付ける人がいると、まさにそう思ってしまう。あなたの見たその一人に何か問題があるなら、その人の問題として語るべきなんじゃないのか、と。そういう風に一個一個の問題として考えなければ、問題の解決なんてできないんじゃないの、と思うのです。


もちろん私は、きちんとした統計的裏付けのあるマクロな議論は大切だと思いますが、世の中で論じられている「傾向」に血液型性格診断くらいの確からしさしか感じられないことが結構あるように思うのです。